美の機能

なんとか一週間終了。ここ数日はグラスホッパーと格闘する日々。最初なのでひどく難しいけど、やたらと面白い。

ところでこないだ友達と機能美についての話をしたのだが、一般にいわれている機能美という概念について、僕はかなり怪しいものだと思っている。機能のみを徹底的に追及したものは見た目も美しくなるという説で、デザイナーのみでなく一般の人にも浸透している概念だが、多分ありゃ嘘だ。

たとえば一つの機能を追求するにしても、やり方は一つではなく色々な作り方があるので、色々な外見を持った製品ができる。同じ性能を持つプロダクトで美しいものと醜いものがあれば、人は美しい方を選ぶだろう。多くの人が美しいものを選ぶから、醜い方は時間の流れとともに淘汰され、美しい方が残る。残ったものが美しいので、我々は「機能を追及したものは美しい」という安易な解釈をしてしまうのではないだろうか。

マツオさんがRCAに留学していた際に作った作品と、そのプロセスはその点で僕にとって刺激的だった。

彼はまだ製作初期のころ、公園でのお花見の際に植物のような美しいパターンにレーザーカットされたスポンジを持ってきて、それを押したりひっぱったりすることで模様が変化するのが面白いんですよと言っていた。桜の散る中で彼が見せてくれたサンプルはとても綺麗で示唆的だった。

彼のとったプロセスは、まず美しい形を作り、それを押してみて動きを確かめる。パターンによって動き方や動きの幅が違ってくる。それを何パターンも繰り返し、模様と動き方の対応表を作り、Rhinoのグラスホッパーで理想的な動きのシミュレーションを重ね、最終的に不思議な模様のレイヤーが何枚も重なった椅子を製作されていた。座ると座面が沈み込み快適なクッションになると同時に、模様が変化し見た目にも面白いというものだ。(卒業段階では強度不足により実際に皆に座って貰える状況にはなかったが・・・)

一般にいわれている機能主義であれば、まず椅子として相応しい沈み込みの量をチェックし、それを実現するための機構を考えるだろう。理想の沈み込みの量を実現することが目的の場合、普通は流通している機構の中からそれを実現可能なものを選ぶはずだ。しかしそれが美しいものになるとは限らない。マツオさんの場合はまず綺麗なパターンを引いてみて、実験を積み重ねることで少しずつ理想の機能に近づけるという点で決定的に異なっている。

丹下さんは「美しいもののみが機能的である」と言ったそうだが、単に機能を追及するのではなく、美しいものの機能を追求する。本当の機能美を追求する行為というのはそういうものではないのだろうかと思う。

美は、ある行為の結果として与えられるような甘っちょろいものではないと思う。それを切実に望むものにのみ、それもごくたまにだけ与えられるものだという気がしている。とか、偉そうなことを書いてみる。